女子学生、渡辺京二に会いに行く/渡辺京二
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「逝きし世の面影」でお馴染みの渡辺京二氏と、女子学生の対談本。本屋で見た時は「あぁ、女子大生と渡辺氏を組み合わせて作った安易な企画なのね」と思って、おおむねその通りだったのだが、それでも渡辺氏の質問に対する答えにはとても光るモノを感じて、思わず購入してしまった。
はっきりと言わせてもらうが、本書で投げかけられる女子学生の質問は、非常に安易で今風に言えば「厨二病」的項目が多い。ただ、それが女学生…というか若者がその時代に真剣に悩む事が出来る特権でもあるので、ま、そういうものなんでしょう。
で、そういう若者のある意味くだらない疑問に対し、安易に迎合して「私は若い人の心をわかってますから」的態度をとメディアが多いのに対し、渡辺京二氏は割とばっさりと、常識に沿って切り捨てる。
例えば第一章にある「子育てが負担な私達」という疑問に対しても「子育てが大変なのは当たり前」とか「旦那が働くのは嫁と子供のため、自分のために働いてる男なんていない」とバッサリ。
子育てについては不勉強ながら未経験なので何ともいえないが、世の中の男が何故あんなに必死になってサービス残業までして働くのかというと、嫁と子供のため以外あり得ない…ってのは、渡辺氏が言うまでもなく、自分も男だからこそ理解できる真実。
だって、私を見るとわかるでしょ。適当に遊べる以上の金を欲してないし、自分のためにしか生きてないから仕事すぐ辞めるし(笑)。男なんてそんなもんだよ…自分で守るべき家族がいないとね。
で、世の中自己表現のために働いてる男なんて何処にもいない中、何故か女はメディアの洗脳なのかなんなのかわからないが、日々の子育てに埋没した自分のアイデンティティが…みたいなことを抜かす。そういう風潮にも渡辺氏は、やわらかい口調ながらもぴしゃりと諭しているのがある意味清々しい。
他、最終章にある「無名で結構」というのも、今の世代の人間達には再認識すべき言葉ではないだろうか。考えてみれば当たり前のことで、世の中全ての人が、自分の存在意義を実現するために生きている訳じゃないし、そんな事は絶対に不可能。「自分は社会に必要とされていない」という幻想も「自分を必要とする社会なんてそもそもない」訳で、世の中の99.999%以上の人間は、自分以外でも簡単に代替が効く存在でしかない。
だからといって、好き勝手やっていいという話ではなく、つまり世の中というのはそういうモノで、「自分が将来何になるか」等という悩みは、日本でほんの近代…それもここ数十年の話だけで、その前は極一部のエリート階級以外は、なんの疑問もなく親の仕事を代々引き継いでいただけである。
昔がこうだったから、今もこんな事に悩む必要はない…と言っている訳ではなく、そういう意味で歴史を学んだり、世の中の見識を広めることが、自己をより相対化して眺めることができ、多くの決断に対してより良い判断ができるのではないか…みたいな事は本書には書いていないが、渡辺氏の結論はその辺にあるのではないかなと思った。
本書が女子学生の質問だから故に成立した訳は、今の世の中、男子よりも女子の方が生き方のオプションが多く、より悩まなければいけない事が多いからなんでしょうね。逆に男子の方は生き方のオプションがあまりなく、大学3年生頃ともなれば、大企業に滑り込むため必死である。
あまりジェンダー論を語りたくはないが、近代社会はある種女性の生き方に多彩なオプションをもたらした社会でもあり、そこは男子よりも女子の方が、より勝ち負けがハッキリと区別されている社会なのだろう。